† ピ ア ノ † 【7】

サツキの部屋、ごめん、またあのカード通して、ルイはケイの顔を見つめながら呟いた。

カードを持つ手が震える。
わずか5ミリ程の隙間にうまくカードを通すことが出来ない。


扉は開いた。
静かに。

磨かれた廊下とは対照的に、サツキの泊まっている病室には毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。鼻に届く、薔薇ではない薄い柔らかい花の匂い。
20畳程の病室のちょうど中央にベッドが置かれている。
その周囲にはソファやテーブル、テレビや本棚が置かれ何も知らない人間が見ると本当にホテルの一室のようだ。
ケイは脇目もふらずベッドに駆け寄る。
「大丈夫・・・まだ麻酔が切れてないだけなんだ、眠ってるよ・・・」
アカはその後ろ姿に小さく声をかける。
サツキは青白い顔をしていたが別段苦しそうな表情ではなく、それだけがケイを少しだけ安心させた。
「朝になれば麻酔も覚めるからそれまで此処にいたらいい」
ルイは部屋の隅のもう一つの扉を指さした。
「付き添いの人のために、もう一つ部屋があるから、疲れたら、眠くなったら其処に」
ケイはその方向を見ようともせず、サツキの寝顔だけを見つめていた。
呼吸を繰り返す、口元が微かに動いている。
しかし、それがなければまるで死んでいるような静かな顔。
この部屋にはおよそ不釣り合いな点滴のビニールのパックとチューブ。
「サツキ・・・・」
思わず涙がこぼれそうになる。
「・・・だ、大丈夫だよ、大丈夫だってば、ね?こんなことくらいでサツキは」
「・・・・。」
無言のケイをどうにかソファに腰掛けさせてアカとルイもその横に腰を下ろした。

「・・・そんなにサツキは・・・」
ルイの言葉にケイは再びうつむいた。
アカが舌打ちをしながらルイを肘で小突いた。
「・・・あ、いや、とりあえずあの傷を治すのが先だって言ってたんだよ、大丈夫だよ、サツキの事だもの、ね?」

「・・・私は・・・」「・・・記者会見してる間、サツキは応接室でテレビを見ていたみたいなんだよ、会見が終わって俺らが見つけたときは、ソファに倒れていて、すぐここに運んで」
アカは腕時計で時間を確かめながら呟いた。
あれから既に数時間経っていた。時刻は明け方の4時半を過ぎている。
「ケイさんもテレビ見てたんだよね?」
「・・・はい・・・」
「事務所もすごい騒ぎだったよ、恐らく明日も、明後日もこの調子で」
ルイが口を挟む。
「とりあえず此処でしばらく静かにしていれば、良くなるって親父も」

「?」
「私はサツキに元気になって貰いたいだけなんです、もう、いいんです、音楽をやるとかやらないとか、ピアノが、ドラムができなくなるとか、そういうんじゃなくて」
ケイは一生懸命に言葉を続けた。
「・・・ただ元気になって欲しいだけなんです、サツキにとって音楽が生きるのと同じくらい大切な事だってわかってる、音楽が出来なくなってしまったら生きていくのも辛くなるのだってわかる、勿論私はピアノだってドラムだってkkkだって続けて貰いたい、みんなとバンドをやっていて貰いたい、でも、それよりも、そんなことよりも、ただ元気になって欲しいだけなんです、私は・・・・ただ・・・・」
「・・・・・・。」
アカとルイはケイの話を黙って聞いていた。
「・・・わかってるよ、みんなの気持ちも、同じだ」

「・・・辛い、ですか?」
ケイは突然呟いた。
「辛い?」
ルイとアカは顔を見合わしどう答えていいのかわからないまま困惑の表情を浮かべた。
「もしもみんながそれぞれ音楽が出来なくなったら、kkkを続けて行くことが出来なくなったら、ベースやギターを弾くことが出来なくなったら、ルイさんは、アカさんは、どうしますか・・・?」
「・・・そんなこと、考えたことがなかったよ」
アカは動揺を隠そうとジャケットのポケットの煙草を探っている。
「どう、するだろうな、俺なら」

「サツキは、死にたいって、言ってました、それなら死んでしまった方がましだって、ずっと言ってました」

忘れない。
ピアノを一人弾くサツキの後ろ姿。
確かに震えながら泣いていた。
死にたいと思ったと
ピアノを弾く手を止め呟いた顔。

「でも、そんなこと誰にも言えなかったって、ずっと、一人で・・・悩んでたって・・・サツキは」
「・・・ケイさん・・・じゃあサツキが目覚めたら、言っておいてよ、あいつが1人で悩んでただって?アカなんて、あの日親父の話聞いた後、車でメソメソ泣いてたんだぜ?」
三人はそれからうつむいてしまい何一つ語らなかった。

白いブラインドの端から朝の光が細く差し込んできた。
肌寒さを感じる程の冷たい光。



「・・・ここ・・・・は・・・・?」

「!?」
「サツキ・・・!」

「・・・此処は・・・」

沈黙を破ったサツキの呟きが聞こえた。
ベッドに三人は駆け寄る。
「よかった、やっと気づいた!」
「ここは俺の親父の病院だよ、事務所で倒れてたサツキを運んで」
ルイとアカが交互に答える。
ケイだけはまだ何も話しかけられず少し離れた所に立ち竦んでいた。
「おい、大丈夫か?麻酔でしばらく眠ってたんだよ、わかるか?俺達の事」
アカはサツキの目の前に顔を出すがサツキは無表情のままうつむいた。
「・・・ああ・・・まだ・・・少しぼんやりしてるけど・・・なんとか、な・・・」
「ケイさんも来てるんだぜ?ほら」
「・・・ケイ、が?」
ルイに強く手を引かれベッドのすぐそばまで来たケイは、目覚めたサツキの顔を見てもまだ声をかけられずにいた。
「・・・ケイ・・・?」
サツキはアカに支えられベッドから身体を起こそうとしたが小さく呻き声を上げ苦しそうに背中を丸めてしまった。
「・・・サツキ・・・!」
思わずケイは動揺を隠しきれずベッドにしがみついた。
「・・・・ケイ・・・」
サツキは再びゆっくりと枕に頭を埋めると溜息を吐く。
「・・・一人に、してくれないか・・・」
「え?
三人から顔を背けるように呟いたサツキの言葉に耳を疑った。
「・・・一人にしてくれ、帰ってくれ・・・誰にも、会いたくない」

「・・・サツキ・・・そんな言い方ないだろう!?みんな心配して・・・!」
顔を背けてしまったサツキの表情を伺い知る事は出来ない。
アカはそのまま無言でドアの向こうへ消えた。
「おい!・・・アカ!!・・・ったく・・・」
ルイはケイの方を振り返ったがケイはその視線に答えるようにサツキに背を向けた。
「・・・帰りましょ・・・ルイさん・・・」
「・・・お、おいっ・・・!いいのかよ・・・!ケイさん、ちょっと待てよ・・・!」

ケイはやはり振り返らずにドアを開けた。アカがドアの丁度正面に、壁に寄り掛かって二人が出てくるのを待っていた。
「・・・どういう事だよ、俺達がこんなに心配してるっていうのに・・・!」
明け方の、少し寒さを感じる廊下にアカの声が響く。
「だいたい、ケイさんだってこうやってわざわざ来たっていうのに、一体サツキは・・・」
ルイは二人の顔を交互に見つめながら溜息を吐いた。
アカはひどく不機嫌な様子でぶつぶつと独り言を呟いている。それに無言で答えるようにケイは悲しそうな顔で一つ深い溜息を吐く。
「・・・あ、ああ、そうだ、軽く休めるトコあるから、取りあえず、さ、ほら、そんな顔しないで・・・」
ルイはケイの手を引いて数歩歩いた先の廊下を曲がった。その後ろをアカも渋々付いていく。
「今時間は誰もいないからセルフサービスになるけどね」
廊下を曲がった先には喫茶スペースが用意されていた。照明をつけ木製のドアを開けるとそこは病院の一室というよりも、街の片隅にある雰囲気のいい喫茶店そのものの佇まい。間接照明の暖かい色合いの光が部屋を柔らかく照らす。
ルイは奥のカウンターに入ると棚から三客カップを用意して手慣れた様子で珈琲を準備している。
「・・・取りあえず、ここで少し様子をみようよ、サツキだって・・・気が付いたらいきなり病室だもの、誰だって取り乱すよ、動揺したって仕方がないさ」
湯気の上がる珈琲カップをそれぞれ二人の前に差し出しながらルイは呟いた。
「・・・嫌に前向きな事を言うよな、ルイは、こういう時によくそんな風に考えられるな」
熱すぎる珈琲に口元を歪ませながらアカは呟いたがそんな皮肉にルイは表情を変えずに答えた。
「そうとでも考えないと、俺達だってただ辛くなるだけだろ?お前だって解ってるくせに」
「・・・・・。」

その時だった。
沈み込んでいた三人の耳に飛び込んできたのは金属音に似た硝子が激しく砕けるよう音。

「・・・!?」

三人はほぼ同時に立ち上がり喫茶店風のその部屋を飛び出した。
「・・・サツキの・・・部屋からだ・・・」
慌ただしくその部屋を抜け出し駆け足でサツキの泊まる特別室へと向かう。
「・・・サツキ!?サツキ・・・!」
口々に、交互に三人は叫ぶ。
「カード、カード出して!早く!カード!」
ルイの言葉にポケットを探りカードリーダーに白いカードを差し込もうとするが震えが収まらない。三人はようやく機械の僅かな隙間にカードを滑り込ませると同時にドアを開けた。

「サツキ!!!」

サツキはベッド横の床の上に蹲るように倒れていた。

「サツキ!!サツキしっかりしろよ!サツキ!!!」
アカはサツキを正面から抱きかかえようとするが、サツキの身体はぐったりと力が抜けベッドの上に運び上げる事さえも容易ではない。
「・・・サツキ・・・!大丈夫か!?おい、どこか痛むか!?サツキ!!」
サツキは息も荒く、人形のようにぐったりとして動かない。
硝子の割れる音はベッドサイドに置かれていた大きな花瓶だった。
粉々に砕けた硝子の隙間に、さっきまで生けられていた花が散らばり辺りは水浸しになっている。
ルイは隣の部屋から新しいタオルを数枚とガウンを手に駆け寄ってきた。
「ルイは親父さん呼んでくれよ、こんな時間でも大丈夫か?」
「・・・あ、ああ、大丈夫だ、すぐ電話するよ、ケイさん、これ持ってて、タオルで拭いてあげて」
タオルを乱暴に手渡すと連絡を入れるためにルイは部屋から飛び出した。
ケイはその惨状を目にし、未だに動くことが出来ずにいた。
ルイから手渡されたタオルを力無く抱きしめ、サツキに呼びかけるアカの声を聞いていた。
「・・・一体・・・どうしたっていうんだよ・・・!」
アカに支えられたサツキの頬に、突然涙が零れた。
「・・・サツキ・・・?」
ケイは二人の側に近寄ることさえ出来ずに立ちすくんでいたがサツキが苦しそうに涙を流しているのを確かに認めた。
「・・・サツキ・・・」


「・・・もう、いいよ・・・アカ・・・お願いだ・・・独りに、してく・・・れ・・・」

「・・・んな事出来るわけないだろ・・・!?」
アカの両手はサツキの肩の辺りを強く掴む。しっかりと支えなければすぐに崩れ落ちてしまいそうだった。
「そんなに痛むのか・・・?すぐにルイの親父さんが来るから・・・ほら、いいからとにかく俺に掴まってベッドに・・・」
そう言いながらアカはサツキの肩に腕を回し支えながら立ち上がろうとしたがサツキは睨み付けたまま叫んだ。

「・・・離せ・・・・!!!それ以上俺に触れるな・・・!!!」

アカはサツキを支えていた両手を思わず離してしまった。
「・・・俺を独りにしてくれ!」
そのまま再び床に崩れるサツキ。
アカは今までにないサツキの激しい感情についていく事が出来なかった。
サツキは苦しそうに床の上に蹲りながら譫言のように繰り返す。
「・・・お願いだ、俺を・・・独りにしてくれ・・・お願いだ・・・出ていってくれ、俺を、独りにしてくれ」

まるで泣き崩れているようなサツキの側から、アカは何も言わず立ち上がった。
そして背後に立ちすくむケイに静かに頷いて部屋から出ていった。
恐らくルイを探しているのだろう。ドア越しにアカの足音がだんだん遠くなっていく。
しかし一人部屋に残ったケイはサツキを抱き起こす事も、ましてやそれ以上近づく事も出来ず、しばらくの間うずくまり震えるサツキを見つめる事しか出来なかった。

「・・・サツキ・・・?」
返事はない。
今此処にサツキを一人にすることなど出来るはずがない。
ケイはサツキの側に座り込み、その長い髪に触れた。


「・・・・・ケイ・・・・・」
涙声のままサツキはケイを呼んだ。



「・・・身体が、動かない」
「・・・え?」
「動かない」


両腕だけの力でサツキは身体を支えベッドに寄り掛かった。
「・・・指先も、ほら、感覚がない」
サツキは虚ろな視線を自らの指先に運んだ。
その言葉に返す言葉がすぐには見つからない。
「・・・だ、大丈夫よ、きっと、麻酔のせいよ、まだ麻酔が」


「違う」

ぐったりと両腕を床に落とす。
まだ水に濡れた硝子の散らばった床をまるで撫でるようにしてゆっくりと動かしてみせる。部屋の照明が砕けた硝子に反射しているがサツキはそれを気にするわけでもなく手のひらで掻き集めるような仕草を無言で続ける。
「・・・やめて・・・!血が・・・」
事実、硝子の破片はサツキの指先の皮膚を破り床には緩く弧を描く血の痕が幾つも付いていた。
ケイはサツキの行動を見ていられず両手を濡れた床から引き離した。
「・・・大丈夫・・・痛くないよ・・・」
「・・・サツキ・・・・・」
「・・・ほら・・・冷たくもない、痛くもないんだよ」

サツキは泣き出しそうなケイの顔を見つめて悲しそうに微笑む。
ケイは傍らに放り出したタオルを掴んでサツキの両手をごしごしと拭いた。
白いタオルの一部分にうっすらと血が滲んでいる。
「・・・どうして・・・!?大丈夫、大丈夫よ・・・!まだ麻酔が残ってるだけだって、さっきから言ってるじゃない・・・!?」
ケイは泣きながら何度も強くサツキの手を、足を拭いていた。
「いいよ・・・もう、いいんだ・・・」
「・・・・・だって・・・・・!」

「もう、いいよ」

ケイはその言葉を聞いて何も言わず握っていたサツキの腕を離した。

「・・・ありがとう、ケイ」

「・・・え・・・?」
涙でぐちゃぐちゃの顔のケイを見つめサツキはもう一度静かに呟いた。
「・・・ありがとう、嬉しかったよ」
「・・・だって!・・・だって、どうして・・・どうして・・・・サツキが・・・こんな・・・!」

「もう、いいよ、もういいんだ」

ケイはサツキの胸にしがみついて泣きじゃくった。
「・・・どうして・・・!?どうして・・・サツキばっかり・・・!どうして・・・!!!」
涙は止まることはない。
蹲るケイの背中にサツキはゆっくりとその腕を回した。
「・・・俺はただ・・・普通の大人に、なりたかった」
「・・・サツ・・・キ・・・」
「・・・でも、もうそれも無理だ」

ドアの向こうがざわついている。
ルイに呼び出されたルイの父親が駆けつけてきたに違いない。
ただ、病室の中の妙な静けさを感じたのかこの部屋に踏み込む事を躊躇しているようにも思えた。
「・・・・あいつらに言ってくれ、此処にはもう来ないでくれって・・・あいつらを、辛くさせるだけだ」
そう、辛いのは俺だけじゃないから。

「・・・ほら、二人とも」
ルイの父親の優しい声がする。
「・・・今日はサツキ君を独りにしてあげよう」
「親父・・・!」
「そのかわり」
ルイの父親は一呼吸置いて白衣を脱ぎつつ呟いた。
「そのかわり何かあったらすぐに連絡してほしい、いいかな・・・?必ず、必ずだよ?」
「・・・はい・・・」
「明日、また一度此処にくるから、それまで、頼んだよ」
ルイの父親はまるでサツキの肉親であるかのような優しい微笑みを崩さず静かに部屋を出ていった。


「どうしてだよ!親父は心配じゃないのか!?」
サツキの病室から数メートル離れた場所でルイは父親に向かい合い思わず叫んだ。
「おい、まてよルイ」
アカは二人の間を引き離すように入り込んだがルイの言葉は続く。
「・・・いいや、アカは黙ってろ!!!」

「あいつを独りにする訳にはいかないだろ!?それを一番よく解ってるのは親父じゃないのかよ!!どうしてだよ!!!どうして俺達がおとなしく帰らなきゃならないんだよ!!!」
「・・・ルイ・・・お前の気持ちはよくわかる」
「じゃあ・・・解ってるならどうして・・・!」
「私は、サツキ君の気持ちも、よく解る、少なくとも、解っているつもりだ」
父親に掴みかかりそうな勢いのルイの腕をアカはしっかりと押さえつける。
「大丈夫だ、私は特別室の隣の部屋に泊まるから、もうこんな時間だ、今日は、お前達はひとまず帰りなさい」
ルイの父親は腕時計に視線を落とした。
「一眠りして、落ち着いたら、また明日此処に来なさい」

ルイとアカは、父親に帰れと漠然と言われ素直に帰る気持ちには勿論なれなかった。
特別室に続くエレベータが地下の駐車場についたにも関わらず、その壁にもたれ沈黙を続ける。
「・・・こんな時間だ、どうする・・・?」
アカは苦々しく時計に目をやり溜息を吐いた。
「このままおとなしく帰れるはずがないじゃないか、アカは黙って見てられるのかよ」
「そりゃあ俺だって心配でたまらないよ、だけど今は」


解決策が一つも見つからない。
何が正しいのかが解らない。


「・・・なんだか、疲れたよ」

アカが不意に口にした言葉にルイは黙ってうつむく。
「・・・もう疲れたよ」
アカはもう一度静かに呟くと車のキーを探り、エレベータを降りた。


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