† ピ ア ノ † 【5】
5
朝。
人々が活動を始める時間だ。昨日のことがまるで嘘のように、そして何もなかったように、庭の薔薇のそばでは鳥が静かに鳴いている。
二人はそのままリビングのソファで眠ってしまっていた。
先に目を覚ましたのはサツキ。肩にもたれ掛かり寝息をたてるケイを起こさないように静かに立ち上がる。
「・・・・。」
部屋の中も、まるで何事もなかったようにとても静かだ。朝八時。
此処でしばらくの間静かに暮らせと彼らは言っていた。それは恐らく不可能な事だろう。此処にもやがて喧噪が訪れる。それまでのわずかな時間。それがどれくらい残されているのかはこの部屋にいる二人にはわからない。
「サツキ」
「・・・起こしてしまったな」
ケイは髪の毛を束ねながら起きあがった。サツキに呼びかけた後の言葉が続かない。余所余所しく立ち上がるとブラインドから庭を眺める。
「ケイ」
サツキが呼びかける声に身体を強張らせる。指をかけていたブラインドの羽が弾かれ軽い音を立てる。
「信じられなかったよ、彼らに医者が言ってた事ドア越しに聞いて、あの日」
くしゃくしゃの髪の毛を撫でつけ整えながらサツキは煙草に手を伸ばす。
「・・・誰にも本当の事、ずっと聞けなくて」
奴らも苦しんでいた事だって、わからないわけじゃない。
サツキは咳き込みながら煙草をくわえていたが、思い出したように携帯電話に手を伸ばした。
「・・・アカか・・・?ああ、俺だ、え?ああ、分かった、落ち着いたらかけ直してくれよ、他のみんなもそこにいるのか?・・・ああ、そうか、わかった、わかったよ、ああ、待ってる、いや、家にいるよ、ケイも一緒だ
、そうか、わかった、じゃあな、ああ後で・・・」
「・・・やっぱり・・・事務所、大変な騒ぎになってる」
携帯電話をテーブルの上に放り投げてサツキは溜息を吐く。
「後で折り返しアカから連絡が来るよ、事務所にいる奴らも、もう何が何だか・・・」
恐らくkkkが所属する事務所は大変な騒ぎになっているのだろう。予感は的中しアカからの電話が鳴ったのはそれから二時間以上過ぎてからだった。
「アカか、それで、それからどうなった?」
『・・・事務所側と話してる暇なんかないよ、サツキ、テレビそこにあるか?』
「ああ、あるけど・・・」
片手でリモコンを操りスイッチを入れる。騒々しいワイドショーが瞬時に映し出される。
「・・・これは・・・」
『ちょうど同じ番組入ってるみたいだな、そうだよ、こんな騒ぎになってる、今朝からずっと』
テレビモニターには昨日の昼過ぎ、ちょうどサツキがホテルから出てきた場面とファンが飛び降りた直後の喧噪が繰り返し映し出されていた。ホテルの全景が大写しになり群がる人の影が画面一杯に広がる。
『今朝からずっとこんな調子だよ、事務所側と話しようにも』
サツキは耳でアカの声を聞きながらもテレビから視線を反らすことが出来なかった。事務所の中の騒々しさが伝わってくる。
画面の端に小さくアカの車が映る。それによろよろと乗り込むサツキとそれを取り囲む人間。サツキとアカがその場を去ってからの一部始終をそのニュースで知ることは出来た。
ケイはサツキのすぐ横で息をするのも忘れてテレビ画面に見入っている。
ホテルから飛び降りたというファンは二十歳のフリーターだったということもその時初めて知った。
『そっちはまだ大丈夫か・・・?』
「・・・あ、ああ・・・今の所はな・・・」
『俺の家にも来たよ、今朝事務所に向かおうと思って外に出たら、人の群だ、事務所の外にも押し掛けてるよ・・・』
受話器越しにアカの深い溜息が聞こえる。
『・・・とりあえず、そんなテレビの言ってること真に受けるなよな、気にすることなんかないからな』
「大丈夫だ、俺のことなら大丈夫だ」
サツキは横目でケイの不安げな顔を見つめて声を潜め呟いた。
『今日はそっちに行く事出来ないかもしれないけど、何かあったらすぐ連絡するから』
「ああ、わかった」
『ケイさんにもよろしく言っておいてくれ、な?』
「わかってるよ」
サツキは携帯電話とテレビ画面とを交互に見つめている。
CMを挟んで繰り返し流れ続けるニュース。騒々しいアナウンスが聞こえ、耐えきれずケイは耳を塞いだ。
「・・・上に行って、静かな所で休んでろよ・・・それか・・・そうだ、シャワーでも入るか?」
ケイは何も言わず頭を横に振る。
わかっている。静かに、一人きりになりたいのはサツキの方だ。
ケイはテレビの電源を落とすとそのまま螺旋階段を上る。
静かな部屋に、サツキをしばらく一人にしてあげたい。
誰よりも苦しんでいるのは、サツキだという事。胸が痛む。サツキの辛そうな笑顔を見るたび、胸が痛む。
ケイはベッドルーム横のピアノの部屋へと進んだ。中央にグランドピアノが置かれている。昨日の夜サツキが悲しげなバラードを弾いていた。重い鍵盤のカバーを押し上げて人差し指で冷たい鍵盤に触れる。震えるような単音。サツキはこの部屋で、あんなにも悲しい曲を今までずっと一人で作ってきたのだろうか。
kkkの曲を思い起こす。
曲だけではない。
初めてkkkの存在を知った日の事。
初めてkkkの曲を聴いた日の事。
初めてライブ会場へ足を運んだ時の事。
音楽雑誌でサツキの顔を見つける度に、一人のファンでしかなかった私は胸が張り裂けるほど切なく、やりきれない悲しい気持ちになっていた。それは私だけではないだろう。音楽雑誌に掲載されているファンからの手紙。ラジオやテレビで放送される沢山のメッセージ。私はその中の一人でしかない、何十万人といる、kkkを愛している人間の、サツキを愛しているという人間の、その中のたった一人でしかない。そう思い泣きながら眠った夜が幾つあっただろう。
ブラインドがぴったりと降ろされた部屋には僅かな光しか差し込まない。
黒光りするピアノの表面に、うつろな表情の自分が映り込んでいる。
サツキは此処でピアノを弾きながら、鍵盤を見つめながら何を思っていたのだろう。
音楽を続けられないと知った後、サツキはどんな気持ちで、このピアノを・・・。
「ケイ」
サツキがうつむくケイの後ろ姿に呼びかけた。
「・・・泣いてるのかと思ったよ」
サツキはケイの腰掛ける椅子のすぐ隣に近寄ると片手でメロディを奏でた。
「一昨日の夜、お前が繰り返しこの曲のビデオ、流してただろ」
あの曲、kkkの一枚目のアルバム、五曲目の曲だ。
ビデオの中には動かないサツキ。雨に濡れながら暗い場所で立ち竦んでいる。その目は悲しそうにずっと宙を見つめている。
サツキの足下に敷き詰められた赤い薔薇。ピアノのバラード。悲しいピアノのバラード。
「・・・大切な、曲なの」
ケイは立ち上がると立ったままのサツキに椅子を勧めた。
「俺にとっても、大切な曲だよ」
kkkのメンバーは曲に対して一切口を開かない。
数多くある音楽雑誌でどんなに特集を組まれても、その曲が一体どんな意味を含んでいるのかは決して語らなかった。
「・・・この曲が思い浮かんだ」
サツキは椅子に腰掛けバラードを弾く手を止め呟いた。
「ドア越しに、あの話を聞いた、あの夜」
雨が降っていたんだ、このまま此処で死のうと思ってた。
逃れられない、そう思ったんだよ。
このまま死んでしまっても構わなかった。
此処でピアノを弾きながら死ぬことばかり考えて。
おかしいだろう?
これから死のうとしてるのに、俺は此処でピアノを弾いていた。
それくらい俺には音楽が必要だった。
まさか、俺がこんな・・・。
サツキはそう呟いて突然ピアノを弾く手を止めた。
「ケイ、悪い、此処に残っていてくれ、俺が戻るまで」
「え?」
「事務所に行って来るよ、俺が話をしてくる」
「・・・待って・・・!でも・・・!」
引き留めても無駄だった。サツキはケイの引き留める声にも振り向かずジャケットを手にする。
「何かあったらすぐ連絡しろよ」
「・・・。」
引き留められるはずがない。
サツキがドアを閉め車を発進させる音を暗い部屋で一人聞いていた。
「・・・もしもし?アカさん?」
ケイはたまらずアカの携帯電話を呼び出した。サツキが事務所に向かったことを慌ただしく告げるとアカの動揺を隠せない声が聞こえてくる。
『・・・まったく・・・しばらく其処にいろって言ったのに・・・!今サツキが此処に来たら余計に騒ぎが大きくなるだけだ、それくらいわからないのか・・・!?アイツは・・・!・・・いや・・・今こんな事を言っていてもどうしようもない、取りあえずケイさんはそこにいてくれよな』
誰もいないサツキの家。一人気を紛らわそうとテレビやステレオの電源を入れたとしてもそれが逆にケイの心を乱す事はわかっていた。
『じゃあアイツがこっちに着いたらすぐ連絡するから、待っててもらえるか?一人で大丈夫か?』
「・・・ええ・・・私は・・・」
言いかけた言葉を飲み込んだ。寂しいなど、不安だなどと言っている場合ではない。サツキも、みんなも私よりもっとつらい思いをしている、苦しんでいるのだ。
しばらく時間が経った。ブラインドの隙間から細く差し込む光は明け方と違い優しい色を帯びているように感じられる。ただじっとピアノの部屋でアカからの連絡を待つ。頭の片隅に朝方テレビで見たニュースがちらちらと浮かんでは消える。アカからの連絡は来ない。勿論サツキからも。
着信音が、静かな部屋に鳴り響いた。
ケイは身体を硬直させ携帯電話の液晶画面をじっと覗き込んだ。
アカだ。
応答ボタンをゆっくりと押す。
「・・・もしもし・・・?」
『ケイさん、サツキから何か連絡あったかい?』
ひどく焦った声。
「・・・いえ・・まだ・・・」
『まだサツキこっちに来ないんだよ』
サツキが此処を出てから既に二時間近く経っている。いくら遅くても一時間もあれば事務所までは辿り着く距離だ。
ケイの不安が限界に達する。
「・・・死ぬんだって言ってた・・・此処を出る前、ピアノを弾きながら、死にたいって・・・!死ぬことばかり考えてるって・・・!」
『・・・ケイさん、落ち着けよ、アイツに限ってそんな事はない!絶対にない!落ち着けよ!」
あとは泣きじゃくるしかなかった。アカも泣き声を聞き同じ不安を微かに感じた。
アイツに限って、絶対にそんなことは・・・。
「・・・遅く・・・なった・・・」
「サツキ!!」
息を切らしながらサツキが事務所のドアを開けた。
「ケイさん!サツキ、今こっちに着いたよ!」
『・・・・!』
「大丈夫だ、心配ない』
『・・・・よかった・・・よかっ・・・』
アカは携帯をサツキの手に渡す。
「・・・ケイ、ああごめんな、心配させて、大丈夫だよ、今こっちについた・・・」
『・・・よかった・・・私・・・もしかしてサツキが・・・』
「何言ってるんだよ、すぐまた連絡するから、な?」
サツキは通話を切ると荒い息を整えながら事務所に留まっていたメンバーに軽く手を挙げた。
「サツキ・・・!」
事務所にいる全ての視線が額に汗を滲ませ駆け込んできたサツキに向けられる。
「この事務所に入るまでもすごい騒ぎだったよ、それに道も混んでて」
サツキの目の前にグラスで水が置かれる。それを一息に飲み干すとサツキが口を開いた。
「休止の話は、もうしてくれたんだろうな?」
アカを横目で見ながらグラスをテーブルに置いた。
「・・・その顔は、そうか、まだだったか」
「kkkをしばらく休止させるよ」
事務所内が静まる。そして鳴り止まない電話の音。
「明日にでも、いや、今日にでも会見開く」
「今日!?早すぎないか?」
「いや、早いに越した事はないだろう」
「でも・・・」
その場ですぐいくつかのやりとりが交わされたがサツキの意志は変わることが無かった。
「会見開くのはすぐにでも準備できるけど・・・」
すぐにアカは事務所の人間に目で合図を送った。