† ピ ア ノ † 【4】



どれくらいの時間が経ったのかは解らない。部屋の照明器具は全て光を失い微かにカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。暖かなサツキの胸。噎せるようなあの薔薇の香り。時折咳き込むその声にケイはようやく我に返った。

突然、バタンと大きな音を立ててドアが開かれる音にケイはベッドの上からその方向を恐る恐る見つめる。
「・・・・いや・・・アカ・・・さん・・・!!!」

焦りを顔中に浮かべて激しく息を切らしたアカが寝室のドアの此方側に立っていた。ケイは傍らの乱れたシーツを手繰り寄せ慌ててその胸元を隠そうとする。
「・・・ご、ごめんっ・・・!」
アカは気まずそうな顔のまま視線をまっすぐ床に落とした。脱ぎ捨てられた服が辺りに散らばる。
「いや・・・まさか、別に、その・・・」
アカは苦笑いをしながらドアを閉め向こうへと戻ろうとしたがサツキがその背に不意に声をかけた。


「・・・ふ・・・なんだ、お前か。」
額の汗を手のひらで掬い、気怠そうに乱れた長い髪の毛を簡単に纏めながらサツキはゆっくりと上半身を起こした。起き際ケイの真っ赤な頬に軽く唇を寄せる。
「で、お前は、この俺に喧嘩を売りにきたのか・・・?」
ノックもせずに、と、何度も強く咳き込みながらもサツキはケイとの時間を邪魔されたからかまっすぐに睨み付けるような視線でアカを見据えた。しかしアカはその視線を真っ直ぐ跳ね返すようにサツキの目を見つめながら呟いた。

「・・・大変だ、大変な事になった」
アカの乱れた息がようやく整い始めた頃、サツキは溜息を漏らしながら床に落ちたままの冷たいガウンを拾い上げてようやく袖を通す。
「・・・ったく・・・お前らしくもない、何があったんだよ・・・」
ケイはサツキの横でシーツを肩の辺りまで引き上げて恥ずかしそうに俯いている。サツキはそんなケイを愛おしそうにその頬をゆっくりと数度撫でながらベッドから立ち上がる。
「・・・・下にいこう」
サツキは一つ大きな溜息を吐き、此処でもう少し休んでいなさい、と不安げなケイに言い残しアカに目配せをして螺旋階段を静かに下っていった。


二人が一階の中央リビングでどんな話をしているのかこの部屋までは届かない。夕方を過ぎた冷たい月明かりがぴったりと引かれているはずのカーテンの隙間から針のように零れ、乱れたベッドと二人が脱ぎ捨てた服をぼんやりと浮かび上がらせている。螺旋階段を下りていく二人の足音が小さく遠くなったころ、ケイは躯を包んでいるシーツに移るサツキの薔薇の香りを微かに感じた。
サツキに抱かれた部分が今も酷く痛くて熱い。
これは、夢ではないのだ。
声が枯れるほどサツキの名前を呼び、何度も気を失うほど激しくサツキに愛されたのは、決して夢ではないのだ。
強く握られた手首にはまだサツキの指先の感触が残っている。
愛していると何度も甘く囁くサツキの声が耳の中に木霊する。
死んでも構わないと思っていた。
サツキに激しく抱かれながらも、このまま死んでも構わないと。

サツキと一緒に、このまま死んでも構わない、と。

「・・・一体何を考えてるんだ、お前は」
ソファに乱暴に腰掛けるや否やサツキは煙草を銜えながら不貞不貞しくアカに言い放った。
「・・・いや、その・・・突然家に上がり込んだのは悪かった、謝るよ」
「いくらお前が謝っても許せる事と許せない事がある」
アカはすまなそうにサツキに頭を下げたがサツキは憎々しげに続けた。
「俺がケイとセックスするのを邪魔する権利が、お前の何処にある?何とか言えよ!」
サツキは目の前のテーブルを握りしめた手で強く殴り付けると横を向いてしまった。
「・・・・じゃ、じゃあそれなら俺だって言わせて貰うよ、俺が何度サツキの携帯に電話したと思う?すぐ着歴見てみろよ、19回だぜ?19回、何なら俺の発信履歴見るか?急に夜中ぶっ倒れて、脇腹にはあんな怪我負わされてこれだけ電話して連絡つかなかったら誰だって心配するだろうが!」
アカはジャケットの胸ポケットから自分の携帯電話を乱暴にテーブルの上に放り投げた。
「それで車を飛ばして来てみたら、なんだよ、そんな身体で、お前は女とセックスかよ、ふざけるな!」
「・・・黙って聞いてりゃ・・・・ふざけてるのはどっちだよ」
サツキはそう叫ぶと立ち上がってアカの胸ぐらに掴みかかった。二人は互いにしばらくの間睨み合っていたがその視線を先に反らしたのはサツキだった。

「・・・・あ・・・・ああ・・・・・悪い、アカ、お前ともめ事を起こす気なんてない・・・ただ・・・」
「ただ、なんだよ!」
アカはまだサツキの動揺を認められずに棘のある言葉を言い放つ。
「・・・何でもない」
サツキはソファの背に寄り掛かり溜息を吐く。
「俺はただお前の身体が心配なんだよ、さっきも何度も苦しそうに咳き込んでたじゃないか、それなのにケイさんがあんな声で泣き叫ぶまで、ヤらなくても」
「・・・あんな声、って・・・・・お前、聞いてたのか?・・・いや・・・わかった、もういい、もういい・・・」
もしもくだらない理由で今日訪ねて来たんだとしたら俺はお前を一生許さないからな、そう呆れ返った独り言のように呟くとサツキはテーブルの上に転がっていた煙草にようやく火を点け、ゆっくりとその煙を吸い込んだ。
「・・・大変な事って、何だよ・・・」
サツキが深くソファに身体を埋めるとアカもようやくいつもの落ち着きを取り戻したようにサツキにポツリポツリと話し始めた。


「・・・あの女いただろ?お前を刺した、あの・・・」
ああ、と呟いたサツキの指先が支える煙草から筒状の灰がそのままテーブルの上に落ちる。もう片方の手のひらでサツキはゆっくりと傷口を撫でながらアカの話を黙って聞く事にした。
「俺を殺して、自分も死ぬとか何とか、叫んでたな・・・」
まるで他人事のような抑揚の無い言葉をサツキは吐いた。
「お前を此処に運んで手当てして事務所に戻ったら、スタッフが物凄い顔してた」
サツキはまるっきり興味がないと言いた気な視線で目の前のアカを見ていた。別に、興味が無いわけではなかった。自分が死んでも構わない程サツキを愛しているというその女の気持ちがなんとなく理解できるような気がした。しかしそれをアカに悟られないよう無表情を繕っていた。
「俺はお前を車に乗せてすぐにホテルから出たから知らなかったんだよ、あの後、ホテルの周りにいた雑誌記者やらがあの女を取り囲んで」
アカはそこまで一気に説明付けると急に黙り込んだ。視線が定まらない。
「・・・・・俺がスタッフ呼び止めて聞いたのも全然要領得ないんだよ、事務所の電話が片っ端から鳴りまくってFAXががんがん流れてきて、事務所の奴らみんなパニくって泣きそうな顔して・・・」
「だから何があったんだよ」

「だから何があったんだよ」

「みんなに取り囲まれた中で、あのお前を刺した女、サツキに裏切られた、浮気をされた、自分はサツキの恋人だったのに、だなんて言いだして、サツキが他の女とホテルに入っていったのを見た、サツキが他の女と泊まっていたのを知ってるなんて叫んで、だからサツキを殺して自分も死んで一緒になるんだ、なんて言い放って」
「・・・何だって?そんな馬鹿げた事・・・」
呆れ顔のサツキ。短くなった煙草を灰皿の縁に押し付けてすぐにまた新しい煙草に火を点ける。
「それだけで済めばよかったんだ、罵倒されるだけで済めば・・・それを聞いたほかのファンの奴らはその女を取り囲んで罵って」
「ケイを・・・あのホテルに運び込んだのを、そいつに見られていたっていうのか・・・?」
サツキも流石に動揺を隠せずに震える声で呟いた。アカは諦めがちに頭を横に振る。頭上に続く螺旋階段を横目で見上げた。ケイは寝室で眠っているのだろう。ケイにだけは下らない不安を与えたくはない。アカは決心したように、重々しく口を開いた。
「・・・ケイさんを本当に見たかどうかなんてもう今はわからないし、もしかしたら本当に、此処、が、狂ってた奴だったのかもしれないけど解らないよ、もう確かめられない」
此処が、と、アカは自分の人差し指でこめかみ辺りを打ち抜くしぐさをした。


そのあとすぐ、その女、あのホテルから飛び降りたんだよ。

「・・・・嘘だろ・・・?」
「嘘なんて言うもんか、意識不明の重体ですぐに南病院に運ばれたって」
サツキのいつもの癖だ。曲や詞に、何かに息詰まった時必ず髪の毛を無闇に掻き揚げて堅く目を閉じる。混乱する頭を整理しようと無駄な努力を重ねる。
「・・・まさか」
なんてことだ、サツキは耐え切れず片手のひらで顔を覆う。
「そんな・・・馬鹿な・・・」
「全部其処にいた奴らが見てる、事務所の金やコネでも、揉み消す事なんて出来ないんだよ、いくらお前を刺した奴だとはいえ、人が一人お前の為に死のうとしたんだ、まあその女が即死じゃないだけよかったものの」
「信じられない・・・どうして・・・!」

「それだけ、お前を、『サツキ』の事を、愛してたんだろうさ」

夜になり、部屋には凛とした冷たい空気が流れている。ソファの横にあるテーブルに置かれた暖かな光の照明器具のスイッチを入れる。
「冗談だろ・・・?俺を刺したのだって、そりゃぁやりすぎだとは思ったけど、まさか」
サツキはガウンの上から脇腹にできた傷口を再びゆっくりと撫でる。



「・・・『サツキ』は、それ程の人間なんだよ」

アカはサツキの戸惑う顔をまっすぐ見つめて、無表情のまま呟いた。

「サツキ、しばらくはここに留まっていてもらうぞ」
「・・・・・。」
それはやむを得ないだろう。サツキは煙草を吸う事も忘れガウンのあわせをぎこちなく直すが、手元が微かに震えている。
日も落ちてこれだけ寒さを感じる時間帯だというのに部屋には薔薇園から届く薔薇の香りがまるで視覚で捕らえられるのではないかというほど充満している。
「お前や俺達メンバーや、勿論ケイさんを追って、恐らくすぐここにも人が押し寄せるだろう」
アカは暗闇に景色など何も見えない窓の外を見ていた。
これから一体どうなるのかは見当もつかない、アカはそう一言最後に呟いて煙草に火を点けた。


「・・・サツキ・・・」
螺旋階段の上からか細い声がした。
「ケイ」
サツキは思わずその声に立ち上がり傷の痛みに少しだけその表情を歪ませた。
「・・・・アカさん、送っていってくれます・・・?私、そろそろ戻らなくちゃ・・・」
アカはサツキの顔を横目で見て深い溜息を吐いた。サツキはケイに何も言い出せずにいる。
代わりにアカが重々しい口を開いた。

「・・・残念だけど、ケイさんにはしばらくここにいてもらう事になった、それが、いつまで続くかは僕達にもわからない」
僕達、と、アカの口調はそこだけ強調されて言っているように聞こえた。ゆっくりと階段を降りながらケイはただならない二人の間に流れる雰囲気を感じ取った。

「・・・一体・・・何があったの・・・?」
ケイはサツキの真横に立ち、横顔を覗き込んだ。
「・・・・お前は・・・お前は何も心配する事はない」
サツキは唇を噛み締めながら呟いた。
「うそ・・・!隠さないで・・・」
それでも何も言おうとはしないサツキ。泣きそうな顔のまま今度はアカに向かって精一杯落ち着き払った振りを繕いながら尋ねた。
「・・・ね・・・ねえ、教えて・・・?・・・アカさん、一体・・・・一体何があったの・・・?」
「・・・・・。」
アカは気まずそうにサツキの表情を確かめる。サツキはそんなアカに向かって一度頷くような仕草をし、ケイの肩を優しく抱き寄せながらゆっくりと口を開いた。
「ケイ、わかってくれ・・・・」
「どうして・・・・!?」
「・・・余計な心配を、かけたくない」
お前に話があるとサツキはケイに優しく諭すように呟く。そしてアカには他のメンバーを呼んでくれと言い残しケイの肩を抱きながら階段をゆっくりと上る。
「お前の車じゃ目立つからな、俺のあの車使えよ」
思い出したようにサツキはテーブルの上の車の鍵を指さしてアカが黙って頷くのを見届けた。

二人は螺旋階段をゆっくり上り、ベッドのあるあの寝室に戻った。
「サツキ・・・一体・・・」
ケイは部屋に入るなりサツキの腕を強く引いて我慢しきれずに訊ねた。
「ねえ、何・・・何なの?何があったの・・・?」
サツキはケイの手を引いてベッドの縁に腰掛けるように指さし、傍らに散らばる白いシャツを拾い上げその一枚に袖を通した。
「こんな下らない事にお前を巻き込みたくはなかった」
サツキはベッドに腰掛けるケイの目の前に屈んでその困惑した顔を覗き込みながら呟き、そしてしばらくの間口を噤んだ。上から二つほど釦が外れたままのシャツからはすらりと伸びた白く冷たい首筋が覗く。



「・・・ケイ、俺は間違っているのか・・・?」



しばらく時間がすぎてサツキがようやく口を開いた。
ケイの横に腰掛けて、しかしケイの目などは見ずに何処か壁の一部分を見つめているようだった。
「沢山のファンと、分かり合えたメンバーと、生きていくのには充分すぎる程の金を俺は音楽で手に入れた、こうしてお前にも出会うことが出来た、それは間違った事か・・・?」
「・・・サツキ・・・」

あまりに思い詰めたような、サツキの表情にケイは返す言葉を失う。

「・・・もしも音楽を続けていく事が出来ないのなら死んでしまった方がマシだって、俺はずっとそう思ってた」
あの夜の、メンバーの言葉がケイの脳裏に蘇る。サツキの身体はボロボロなんだ、もうドラムを、バンドを、音楽を続けていく事が出来なくなるかもしれない。サツキもそれがたちの悪いいつものような冗談だと思っているのだろう、彼自身確かにいつか微笑みながらそう言っていた。

「・・・俺は、何もかもを望みすぎたのか・・・?」
サツキは自分の膝の上に置かれた手を固く握りしめ唇を震わせながら繰り返した。
「ケイ・・・俺は、間違っているのか・・・?俺が音楽を続けていく事は、そんなにも間違った事なのか・・・?」


泣いているのだろうか。
語尾は叫びに近かった。サツキはまるで何かに怯えるように頭を抱え込む。
長い髪の毛の隙間から見える指先、そして澄んだ声が確かに震えている。
「・・・サツキ・・・」

ケイは泣いている子供を母親がそうするように、優しくサツキの身体を自分の胸元に寄り掛からせる。サツキは黙ってケイが髪をゆっくりと撫でるのを感じながら自分の気持ちを落ち着けようとしていた。頼りない深呼吸を繰り返す。

「・・・今日・・・・何があったの・・・・?」
アカがあれ程までに取り乱して家に駆け込んできたのには相当の理由があったはずだ。二人が一階のリビングで話していた事は何か解らないが、それがひどくサツキの感情を揺さぶっている事は確かだ。ケイは繰り返し訊ねる事に少し躊躇したが無表情のままケイの胸元に項垂れるサツキを見て我慢しきれずに繰り返した。
「・・・サツキ・・・・・・何が」

泣かないで、なんて言えない。サツキの姿を見て、訊ねる事が出来ない。
ケイはただじっとサツキが何かを言い出すのを黙って待つ事しか出来ない。
「俺の音楽が、曲が誰かを苦しめているなんて、俺が生きている事で苦しんでいる人間がいるだなんて」


・・・俺を刺したあの子が飛び降りたんだよ、あのホテルから・・・。


サツキは悲しそうに微笑みながらケイをみつめた。涙に潤んだ透明な瞳。
「・・・ああ・・・俺の為に、死のうだなんて、どうして」
「サツキを」

サツキを、愛しているんだわ。
サツキを愛してしまうと、誰でもそうなってしまう。
私にはわかる、命をかけても構わない程サツキを愛しているから。
わかるの。
その子も私と同じように、死んだって構わない程サツキの事を愛していたんだわ。


「俺の為に誰かが死ぬなんて、俺は、そんなにたいそうな人間じゃない」
サツキは繰り返す。
「・・・俺は、皆が言うほどの人間じゃない・・・!」

サツキは真横に腰掛けるケイを力一杯抱きしめ震える声で叫んだ。

誰でも貴方が奏でる儚げなピアノの音に涙を流す。
貴方はいつも遠いステージの上で、頬に流れる涙にまで視線が及ばないだけ。

貴方の創る終わらない雨のバラード、繊細なピアノの旋律、貴方の存在が、自分の全てだと信じている女の子は、私だけじゃない。
あのホテルから飛び降りて死のうとしたあの女の子だって、そう。
サツキと一緒になれるのなら、自分の生命だって惜しいとは思わない、私には、解る。


私は、貴方の為に死んでも構わないと思うほど、貴方を愛している。




「・・・もしも俺が、音楽を続けられないとしたら」
「・・・サツ・・・キ・・・」

サツキは言いかけた言葉を飲み込んだ。
泣いている。
ケイの頬に伝わるほどサツキの涙は音もなく流れ、震える声のままサツキは続けようとした。


俺が音楽を
『KKK』を続けられないとしたら
ピアノを、ドラムを、続けられないとしたら

何処かへいなくなってしまうのか?
お前は今までのように俺を愛していてくれるのか?


お前は、『サツキ』ではない




『俺』を
愛してくれるのか?

サツキはそれ以上言葉を続ける事が出来ない。
ケイの胸に顔を埋め声を殺し泣いている。
その肩が小刻みに震えている。


「・・・もう・・・俺なんて、このまま死んでしまった方が・・・どんなに楽だろう・・・」
「・・・そんな風に言わな」
サツキは突然声を荒らげてケイの言葉を遮った。
「・・・じゃあ教えてくれ・・・!音楽が出来なくなって、ピアノもドラムも、バンドも続けられなくなって、じゃあ俺は、どうすればいい!?一体何を求めて生きていけばいい!?俺は何のために、生きていけばいい・・・!?俺はこれから一体何を・・・!!」
酷く取り乱したサツキはケイの両肩を鷲掴みにし叫んだ。そして堪えきれずふらふらと倒れ込むようにベッドに突っ伏した。ベッドの上でサツキは震え続ける。頭を抱え込み、何かに魘されているような苦しげな呼吸を押し殺す。
「・・・・・大丈夫、よ、そんな風に言わないで・・・」
突然サツキはベッドに横たわったまま小さな声でゆっくりとケイの顔を見上げ呟いた。
気休めの言葉は何の力も持たないことをケイは知っていたがその時何かをサツキに言わなければ今すぐにでも彼が本当に死んでしまうのかもしれないと無意識に思った。

「・・・もう・・・無理しなくてもいいよ、俺は、音楽出来なくなるんだろ?」

サツキが悲しそうに微笑んでいるのが気にかかった。ケイを見つめていながらも何処か遠くを眺めているような透明な視線。
「・・・サツキ・・・・・」
「腹抱えて笑いたくなるくらい周りの皆が俺に異常なほど気を遣ってるね、わかってるよ、知ってるんだよ、もう」

知ってたよ、俺の身体、もうボロボロだってね。


「解ってるんだ、俺が一番よく解ってる、こんな身体になったら、ドラムを、バンドを続けられないって事は俺が一番よく知ってる」
そうだろう?アカやメンバーに医者が俺のこと話をしてるのをドア越しに聞いたんだよ、これ以上俺の身体に負担をかけるとドラムどころか一生ベッドの上で暮らさなくちゃいけなくなるって、彼奴らにそう医者は言ってた、そうだろう?
「・・・サツキ・・・・」

まだ涙の乾かないサツキの顔に浮かんだ無表情に近い微笑みを見て何を言えばいいのだろう。


「お前を抱いてから、最期に一度でいいから、お前を抱いてから死のうと思っていたよ」
「・・・サツキ、そんな」
「だって、そうだろう?音楽をなくしたら俺はもう生きていく事なんて不可能、そうだろう?そうだ、お前に訊ねるまでもない、それなら俺はこれ以上生きていたってなんの意味もない」
サツキは口元にかかった髪の毛を払いながら呟く。
「・・・無理だと言われても、完全に身体の自由が利かなくなるまで、俺はこのまま続けるよ」
「ダメよ・・・!しばらくここで静かに暮らしましょう?ね?そんな無理をしたら治るものも治らなくなるのよ・・・!?」
「俺は、それでも、構わない」
「・・・サツキ・・・」

サツキは激しく咳き込みながら身体を起こした。蹌踉めきながら立ち上がると制止するケイの言葉には耳も貸さずにゆっくりと隣の部屋へと歩く。
其処には大きなグランドピアノが備え付けてあるのだった。
艶やかに磨かれた漆黒の表面にほの暗い照明が反射し揺らめいている。
サツキはゆっくりと椅子に腰を落ち着かせると深呼吸をし咳を堪えながら滑らかな鍵盤に指先を伸ばした。
サツキの細い指先が奏でるバラード。
今まで誰も聴いたことのないほどの、優しく、そして悲しい月明かりの夜の曲。
「・・・サツキ・・・」
ケイがそれ以上言葉をかけるのを躊躇ったのは、ピアノに向かうサツキがあまりにも悲しげな表情で、まるで鍵盤にしがみつくように弾きながらも、肩を震わせて泣いているのを目にしてしまったからだった。



「・・・サツキ!」

ドアが開かれる大きな音。
慌ただしくアカが駆け込んで来た。

「・・・早かった、な」
「この辺にも、もう怪しい車がウロウロしてたよ」
サツキはピアノを弾く指先をふと止めて額に汗を滲ませるアカの顔を見た。
「・・・下にみんな集まった、一通りの話は済ませてある」
「悪いな」

サツキはそれから何も言わず静かに階段を下る。ケイにもアカにも何も言わず。
ケイとアカはそんなサツキの後ろ姿をうつむき加減で目にして、その後を追った。

「・・・こんな夜中に来て貰って悪かったな」
サツキはメンバー全員が見える位置に腰を下ろした。
「で、大丈夫なのか?」
真っ先に口を開いたのはベースのルイだった。
「・・・ああ、大丈夫だ」
アカはサツキのすぐ横に腰を下ろしたがケイは余所余所しげに彼等の周りをただウロウロしているだけだった。
「・・・サツキ、俺等も話はある程度聞いたけど」
「悪いな、こんな・・・」
サツキは溜息を吐きながら順にメンバーの顔を見た。
誰も困惑しきった表情をしている。無理もない。突然訪れた問題に誰もが突き当たっている。
「俺の家にもひっきりなしに誰か来ているみたいだったよ、チャイム連打されてさ、ここに来るときも裏口からこっそり出て、此処は見つかってないはずだけど・・・」
ルイは間が悪そうに煙草に火を点けた。
「・・・その・・・お前を刺したって女は死んだ訳じゃないんだろ?」
「ああ、南病院ってとこに入院したって」
黙り込むサツキの代わりにアカが答える。
「それならまださ、だいたいお前が悪い訳じゃないし、そんなに気に病むことないよ」
アカの言葉に少し安堵の空気が部屋に広がったがそれを打ち砕くようにアカが言葉を続けた。
「いや、分からない、これからその子がどうなっちゃうのか、元気に退院してそれで終わりって事はないだろう」
「朝になったら速攻事務所に連絡つけて、これからどうするのか・・・まあそれまでサツキも此処でゆっくりしてさ、早く元気に」
ルイがそう言いかけたその時だった。


「・・・もういい!」

サツキは急に声を荒らげた。

「・・・ルイ、俺に早く元気になれだって!?ふざけるな!」
立ち上がりルイの胸倉を掴みかかろうとするサツキを止めることが出来なかった。
サツキはルイの目の前に仁王立ちになり叫んだ。
「俺に、元気になれだって!?知ってるだろ!?これから俺の身体がどうなるのか、お前等だってみんな知っててそんな事言ってんだろ!?いい加減にしろよ!」
「サツキ・・・!やめろ!」
アカはサツキを引き留めながら叫ぶ。
「アカ!はっきり言ったらどうなんだ?俺はもう何も出来なくなるんだろ!?」
「サツキ・・・」
サツキは涙を堪えている。ケイはサツキの後ろに立ち竦んだまま黙ってアカとサツキの顔を交互に見つめる事しか出来ない。
「・・・だから、いいよ、もういい、お前等にこれ以上迷惑をかけるつもりなんかない」
ぐったりと崩れ落ちるようにサツキはソファにもたれ掛かった。傷口が痛むのか顔を少しひきつらせる。
「・・・もういいよ・・・ピアノもドラムも音楽も、kkkも、何もかも出来なくなって、それが俺に残された道なんだろ?」

「・・・もういいよ・・・ピアノもドラムも音楽も、kkkも、何もかも出来なくなって、それが俺に残された道なんだろ?」



「・・・ああ、そうだ」
「アカ・・・!」
ルイはアカが何を言おうとしているのか瞬時に悟った。
「すべて、お前の為だと思って隠してきた」
サツキは目を閉じアカの言葉を聞いている。
「俺達だって嘘だと思ったよ、嘘だって思いたい」

壁に掛けられた時計の針が刻むノイズだけが部屋に響く。
どれだけ長い間沈黙していたのかわからない。
アカはただサツキの顔を見つめ、ルイや他のメンバーはどうすることもできず息苦しいその雰囲気から逃れようとわざとらしい小さな咳払いをしたり煙草を無意味に口にしていた。


「お願いだ、サツキ、お前の為だ」
アカは切り出した。重い空気は尚も続く。
「・・・俺の為だって?」
頷くアカ。視線はアカとサツキにただ黙って注がれる。
「俺達の、kkkは、どうなったっていい、お前が音楽を続ける以上kkkは存在する、だからバンドの事は何も心配する必要はない、でももしお前がこのまま無理し続けて動くことさえままならなくなったら、お前自身はどうする?」
「そんな俺なら生きていたってなんの意味もない!」

「お前が死んで、じゃあケイさんはどうなるんだよ」
「・・・・。」
二人のやりとりを真後ろで聞いていたケイ。
サツキが死んでしまったら、私は・・・。

「じゃあ一体どうすればいいって言うんだよ!」
そんなサツキの叫びに、アカは他のメンバーを息を合わせるように答えた。


「しばらくの間kkkを休止させる」

メンバーはアカの言葉に声もなく頷く。此処を訪れる前に話し合ってきたのだろう。異論など勿論なかった。誰もが同じように考えていた。

「その間にお前は此処で休んでいてくれ」
「・・・・!」

「俺達のことなら心配する必要はない」
な?
アカはメンバーの顔を順に見つめたが誰もが黙って頷いた。
「月1の休みだって今まで無かっただろ?何年間も突っ走って来たんだ、どっかでのんびり羽のばそうぜ」
ルイは同意を求めるように話に加わる。
「金だっていくらだってあるんだ、一年や二年やそこら休んだって平気だよ」
ルイはそう言って微笑む。
「朝になったら事務所に連絡しておくよ、誰が何て言ってもこれは俺達が決める事だ」
時計は既に明け方を刻む。
メンバーからの提案を素直に飲み込めないままサツキは仕方なく彼等を送り出した。リビングにかかるブラインドの隙間からは冷たい朝の光が静かに入り込む。




「これでよかったんだ」
車のドアを開けながらアカは呟いた。
「そうだ・・・間違ってなんていないよ、俺だってもうこれ以上あんなサツキを黙って見てられない」
「ああ・・・」
ルイは眩しそうに朝陽を見つめる。
「・・・明日、一度事務所に集まろう」
「そうだな」
メンバーは互いに軽く手を振りそれぞれ車に乗り込んで走り去った。

「サツキ・・・」
「・・・・。」

リビングでサツキはまだ黙り込んだまま。
ケイの呼びかけにも一向に答えようとはしない。何か独り言を呟いては溜息を吐く。
「・・・そんなに考え込まないで・・・」
「・・・・。」
「これで・・・よかったのよ、ね?・・・大丈夫よ、大丈夫」
ケイはサツキを包み込むようにぎゅっと抱きしめた。

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