† ピ ア ノ † 【3】



合鍵で玄関をあける。
小さく音楽が鳴っている。
静かなピアノの曲だ。
花の香りがする。
玄関から恐らくリビングへと続く細く長い廊下。猫足の小テーブルの上には真っ赤な薔薇が飾られている。
「此処にサツキが」
ケイは何処か外国のホテルのような雰囲気のその建物を見上げて呟いた。
実際建物自体はそれほど新しくはなく、しかし所々に飾られている装飾の一つ一つがとても趣味がよく、どれも年代を感じさせていた。
「そうか、サツキの家は初めてなんだものな」
スタジオから遠いのにわざわざこんな辺鄙な場所に家買って、一ヶ月に一度くらいしか此処に来れないっていうのにさ、アカはリビングへ入るドアを静かに開けた。
「サツキの部屋は二階なんだ」
ジャケットをリビングのソファに放り投げて階段を指差す。リビングは見上げるほど高い天井に天窓がつき、その奥には二階、そして恐らく三階へと続く細い螺旋階段が備付けられていた。

「・・・・ケイ・・・・!!!」

頭上から声がした。天窓から降り注ぐ太陽の光が創るサツキの影。螺旋階段の丁度中ほどの高さからサツキが身を乗り出してケイを呼んだ。ケイは何も言わず螺旋階段を駆け上がる。
「サツキ、寝てなきゃだめだろ!?」
アカは大きな音を立てて階段を駆け上がるケイを引き止めるわけでもなく、少し呆れたように挨拶程度に片手を挙げた。
「・・・サツキ・・・大丈夫なの・・・?」
サツキはゆっくりと階段を降り始める。ケイは不安定な足場のせいかサツキの思いがけなく青白い顔色に抱きつく事が出来ない。真っ白いガウンを着て脇腹を軽く押さえながらサツキはゆっくりと階段を下りて、ケイの正面に立つ。
「心配、かけたな」
「・・・・・・。」
ほら、そんな顔もうするんじゃない、サツキは何処か遠くを見て微笑んでぎこちない指先でケイの手を引いた。
「アカ、そんなところに突っ立ってないでさ、俺がこのあいだ買ってきた紅茶そこら辺にあるから、さっさといれていれて」
俺は病人なんだぞ、怪我人なんだから、ケイにそう笑いかけた顔は無表情に近かった事が気になった。
「少し甘やかすとすぐコレだ」
アカは苦笑いを浮かべながら部屋中を見回してサイドテーブルに置いてある紅茶のセットをようやく見つけた。

幸福は、いつも一瞬。

コポコポと小気味良い音が注ぎ口から流れる。
花のような香りの紅茶は三人の間をゆっくりと縫って何処かに消える。
その間に混ざりこんだアカとサツキの口にする煙草の匂いと煙。
「まさかこんな形でケイを此処に呼ぶことになるなんてな」
サツキはまだ湯気を立てているティーカップをゆっくりと持ち上げながら呟いた。
「それよりも、あそこは大丈夫だったのか?」
「サツキを此処に運んでから、俺、ちょっと様子を見てきたよ、凄い人だかりで、カメラ持ったヤツとかうようよしてたよ」
「ふうん」
サツキは他人事のように煙草の火を揉み消してベランダから見える薔薇の庭に目をやった。
「ケイ、お前此処に住んでくれよ」


・・・え・・・?

「そんな困った顔しないでよ、違うよ、勘違いすんなよ、ほら、誰も薔薇に水をやれないだろ?俺もなかなか此処に戻ってくること出来ないし、ケイが此処にいれば薔薇だって、ほら」

「枯れる事はない」
サツキは真正面に座っているというのにケイの目を見ずに繰り返した。
「な?」

「おい、突然そんな言い方ないんじゃないのか!?」
アカは苛立ちを隠せない様子でサツキに向かって叫んだ。
「そんな言い方するなよ!ケイさんだってお前のことすごく心配して、それなのにどうしてお前は!」
可哀想だろ、これじゃあケイさんが可哀想だよ、アカはそう言ったまま黙々と煙草を咥えていた。サツキは何も言わずに庭の薔薇園に視線を移す。確かに少し瑞々しさが足りない様だ。照りつける太陽が窓から容赦なく入り込む。
「とりあえず俺は戻るから」
冷めた紅茶を飲み干したアカが乱暴にティーカップを置いて立ち上がった。
「あいつ等にはサツキが此処にいるって事は伝えておくよ、明日はスタジオだしな」
とりあえずサツキは此処で少しは休んでくれよ、俺達が心配してる事くらい解るだろう?アカはそれっきり何も言わずに車のキーを手にして出て行ってしまった。ケイとサツキの二人だけが取り残された部屋に遠く響くエンジンの音。サツキはやはり庭をじっと見つめたままだ。

「此処の薔薇を、全部お前にやるよ」

サツキはただそれだけ言うと立ち上がった。
「・・・サツキ?」
サツキは脇腹を軽く押さえゆっくりと階段に足をかける。手すりに体重を傾けて苦しそうな表情で一段上に向かう。少し咳き込む度に傷が痛むのか顰める横顔がケイにもはっきり解った。
「サツキ!」
ケイは手すりに寄りかかり身動きしないサツキに駆け寄った。大丈夫だ、という掠れた声が耳元に小さく聞こえる。
「・・・何処が大丈夫なのよ・・・!」
サツキの額に滲む汗と、かなり上へと伸びる階段の先を交互に見た。


サツキの寝室らしい広いベッドルームにようやく辿り付いた。螺旋階段を二階まで上り細く続く部屋までの廊下を辿り重い木製のドアを開ける。部屋のちょうど中央のあたりに大きなベッドが設えてあり傍らに置かれた丸椅子の背にはさっきまでサツキが着ていた洋服が無造作にかけられている。
「・・・ケイ・・・悪い、な・・・こんな・・・」
長い髪の毛は痛みからくる汗で額に纏わりつきサツキは無意識にそれを手で払う。しかし一箇所身体を動かすたびに傷口が痛むのか小さく呻いて、それからだんだん呼吸が粗くなる事にケイは気づいた。
「・・・サツキ、もう何も言わないで・・・」
ケイはサツキをゆっくりと寝かせてその傍らの丸椅子に腰を下ろした。サツキは頷くわけではなく、堅く目を瞑ったまま粗い呼吸を繰り返していた。

ねえサツキ、サツキはどうしてこんなになるまで音楽を続けるの?

ケイは苦しげなサツキの横顔を見ながら喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。

「小さい頃は、普通の大人になりたかったよ」

目を閉じながら、サツキは誰に語りかけるという訳でもなく話し始めた。少し悲しそうな笑みを含めて。
「・・・まさか、こんなことになるなんてな」

こんなこと、というのが、『KKK』でメジャーになったことを言っているのか今日ファンに囲まれ傷を負ったことを言っているのか、それとも、もう音楽を続けられないという事を無意識に悟ってしまったのか、それはケイにも解らなかった。ただあまりにも憂いを帯びた口調で言葉を続けるサツキの横でただひとことも聞き漏らさないように黙って俯いている事しかケイには出来なかった。
「普通に学校を卒業して適当に就職して空いた時間に適当な音楽をやって、俺みたいな人間、そんなんでいいと思っていたよ」
サツキは何かひとこと言うたびに苦しそうに咳き込む。


「・・・そう、普通に、大人になって、普通の、生活をしていれば」


「こんなに、苦しまなくてもよかっただろうな」


サツキは最後にそう言って強く目を閉じた。
ああ、サツキが死んでしまう。
きっと、サツキが私の目の前から消えてしまう。

「いや!サツキ、死なないで!!

ケイは横たわるサツキの身体にしがみ付いた。
サツキが死んでしまう。
サツキが、私の前から綺麗に消えてしまう。

「・・・大丈夫、だよ、少し疲れただけ、だから・・・」
「サツキ・・・」
ケイは目に涙を浮かべながら顔を上げた。サツキの目は優しく笑っている。
「・・・少し、眠ってもいいか・・・?・・・ケイ、今日は此処にいてくれるんだろう・・・?」
サツキはゆっくりとケイの頬に手を伸ばし体温を感じ取る。ケイは何も言い返す言葉を見つけられないまま黙って何度も頷くことしか出来ない。

「ケイ、もう少し、こっちに来いよ」

眠っているのだとばかり思いこんでいたケイはサツキの声に顔を上げた。
サツキの顔を覗き込むがまだ目を閉じたままのサツキは口元に不自然な笑みを浮かべている。
「ケイ」
サツキは急に躯を起こすと突然ケイの手首を強く掴んだ。指先には思いがけない程の強い力が加わっているのを感じてケイは不安を隠せずにサツキの目を見つめ返した。金色の髪の毛の向こうからケイを見据えるサツキの視線は悲しげで今にも泣き出しそうに見える。

「サツキ・・・?」
「・・・何も、言わないでくれ」
サツキはそのままケイの躯を自分の胸元に強く引き寄せた。

濃厚な、薔薇の香りがする。

この家を訪れた時うっすらと鼻先に届いたのは飾られている花瓶の花束でも、庭先に広がる眩しい薔薇園でもなく、サツキが独りきり過ごす時に身に纏う香水だという事にケイは気が付いた。
苦しいのは、あまりにも切なすぎる薔薇の香りのせい。
強く抱きしめられるケイが感じるのは今まで感じたことのない程切ない薔薇の香り。ケイの唇にもう少しで触れそうな、震えるサツキの白い皮膚。


こんなに長い時間、いや、正確にはケイが思うほど長時間では無かったはずだ。サツキの胸に引き寄せられているという動揺と不安。それがケイの感覚を既に麻痺させ始めていたのは確かだった。
ケイがサツキと出会ったのはほんの数ヶ月前。偶然としか言えない偶然でケイはサツキと出会った。あれから、数ヶ月。サツキは常に紳士的な態度でケイに接した。不安のあまり泣き出したケイを優しく慰めるように頬を寄せるだけだった。
今、サツキの躯は軽い微熱を帯びて柔らかな天鵞絨のようにさえ見える。
艶やかな、月の光のような肌の色。

ケイはその美しさに息をすることも忘れサツキの鼓動を耳元で確かめるように目を閉じた。濃厚な、薔薇の香りが二人を包み込んでいる。

「・・・いま・・・お前を、抱いてもいいかな」

サツキはケイの髪の毛をゆっくりと撫でながら呟いた。
「・・・今日は、ずっと此処にいるんだろう・・・?」
サツキはケイの躯をベッドの上に仰向けにして、傍らの椅子の背にかかる白いガウンに手を伸ばした。
洗い立てのパイル地のガウンにゆっくりと腕を通しながらサツキは冷たい床につま先を付ける。
大きな羽根枕に頭をすっかり埋めながら立ち上がったサツキの背中をケイは見つめていた。

サツキに出会う前。
泣きながら目覚める憂鬱な朝を何度迎えたのだろう。
あれほどサツキに抱かれたいと願っていた。
サツキに抱かれるのなら、死んでもいいとさえ思っていた。

サツキを拒む理由なんて何一つないのに。

サツキはそれから何も言わず大きな窓辺に立ち外を眺めている。窓からは暖かい昼間の日差しがベッドの上まで降り注ぐ。
「・・・ねえ、サツキ」
サツキの背中に声をかけるが逆光のサツキは何も言わない。
「・・・サツキ」
黙ったままのサツキは窓の向こうの薔薇を眺めているのだろうか。ケイの呼びかけには答えずただ目を細め一つだけ深く息を吐いた。ケイの目に涙が溢れそうになっているのを振り返ったサツキは認めた。

「・・・ごめん、ケイ、ごめん、そんなつもりじゃ・・・」
サツキは唇を振るわせるケイのすぐ側に駆け寄り抱きしめた。
「まさかお前が泣くだなんて思わなかった・・・聞かなかった事に、してくれ」
ケイの髪の毛をゆっくりと、優しく撫でながら何度も繰り返し呟いた。


「・・・抱い、て・・・」


「・・・ケイ?」
「お願い、何度も言わせないで」

ケイは自らシャツの釦を外し始める。
「・・・嬉しかったの、嬉しかったの、サツキが、そう言ってくれて、私、どう答えたらいいか解らなくて」
「ケイ」

サツキはシャツの釦をなかなか外すことが出来ない震えるケイの手を優しく払い強く抱きしめた。ケイは恥ずかしげに少しだけ横を向く。真正面にサツキの整った笑顔と白い彫像を真似たような首筋。濃厚な、薔薇の香り。
サツキはケイの躯から優しく服を脱がせると白いシーツを手繰り寄せてその躯をすっぽりと包み込む。
「・・・寒くないか?」
ケイはシーツの中で躯を固く丸めている。サツキは身につけていたガウンを床に放り、ケイの握りしめるシーツに潜り込んだ。サツキのしなやかな指先がケイの躯をゆっくりと愛撫する。思わず洩れそうになる声を押し殺しながらぴったりと触れる肌の暖かな感触をケイは確かに感じ再び目に涙を浮かべた。
「・・・そんなに苦しそうな顔しないで・・・・」
唇を噛みしめるケイの顔を覗き込んでサツキは意地悪く微笑む。
「・・・サツ・・・キ・・・」
「すぐ・・・気持ちよくしてやるから・・・」

ただその薄暗い部屋の中に響くのはベッドの軋む音だけ。苦悶の息遣いが時折不規則に混じる。
「・・・んあ・・・ああ・・・・」
「・・・もっと大きな声出しなよ、恥ずかしくなんかない」
サツキは泣きながら堪えるケイを真上から見下ろして微笑む。仰向けのままサツキの強い力で押さえつけられている筈のケイの腰が徐々にベッドからゆっくりと浮いてくるのを確認して、サツキはその身体を更に激しくケイの中に突き立てる。

「・・・あああ・・・んあ・・・・あ・・・!」
「・・・すぐ、ラク、に・・・してやる」

サツキは立ち膝をついてケイの身体に深く挿入したまま、まるで本の一ページを捲るかのようにさっとうつ伏せにしその腰を高く上げさせた。
「・・・・え?・・・サ・・・サツ・・・キ・・・・・・?」
サツキはケイの懇願に耳も貸さずに荒々しく行為を続ける。ケイの腰を両手でしっかりと後ろから押さえつけてさらに激しく身体を揺さぶる。


「・・・愛してるよ・・・」


噎せ返るような薔薇の香りとサツキの匂い。サツキの体温。震えが止まらない自分の身体。ケイは混乱していた。
サツキと繋がる部分はサツキが欲のまま動かすごとに酷い痛みと快楽を同時にケイに与える。サツキが気だるそうな口調でゆっくりと何度も耳元で囁く。
愛している。
サツキの言葉は身体ごと溶かしてしまいそうなほど甘く優しく、しかしそれと同時に身体を駆け抜ける挿入された部分の痛みにケイは既に気を失いかけていた。

「・・・い・・んあああ・・い・・・いやぁっ・・・!も・・・もう・・・やめ・・・・・」
サツキは額に数粒の光る汗を浮かべてケイの泣き声に聞き入っていた。
「もっと・・・ぐちゃぐちゃに、したいんだよ・・・お前、を」
愛してるよ。
サツキは荒い息の合間にそう呟いて、うつ伏せのケイの身体に腕を両側から回し痙攣を起こしかけている身体をしっかりと固定して乱暴に腰を動かす。それから僅か数分のち、最後にケイがサツキの名前を強く叫び、それとほぼ同時にサツキも内部に全てを放出しベッドに倒れこんだ。ケイの身体は不規則に痙攣を繰り返している。薄く開いた口元からは苦しげな息遣いが漏れる。


「・・・・・ケ・・・イ・・・・大丈夫・・・か・・・?」
まるで壊れた人形のようにただベッドに身体を横たえているケイの震える身体にゆっくりとサツキは手を伸ばす。
「・・・・・・サツ・・・・キ・・・・わ、わたし・・・・・」
ケイは状況をようやく飲み込んでサツキの視線から逃れようとする。本能的にサツキの腕から逃れようとしたのだろうか、ケイは床に散らばる服に手を伸ばそうとしたがその手首をサツキは強く掴んで離さない。
「・・・だめだよ・・・ケイ、これから朝が来るまで・・・お前の身体、離さないから」
「・・・い・・・いや・・・!」
サツキは自分の頬に汗で纏わりついた髪の毛を払いながら笑みを浮かべた。

「・・・ふふ・・・・何度でも・・・イかせてやる」
しかし肩越しに見たケイを見つめるサツキの目は悲しみを湛えたように酷く濡れていた。
「・・・ほら、ケイ・・・・早く・・・こっちへ来いよ・・・」
掴んだケイの腕を強引にその胸元に再び引き寄せる。
「・・・んう・・・・う・・・・サツ・・・キ・・・離して・・・お願い・・・離し・・・・て・・・」
掠れた声でケイが泣きながら何度も懇願するがサツキはその声を遮るように唇を押し付けた。
ベッドが激しく軋む音と嗚咽を漏らすようなケイの苦しげな泣き声が暗い部屋にいつまでも続いていた。



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