† ピ ア ノ † 【1】



「今日も素敵だったわ」
ケイはそう呟くと名残惜しそうにテレビの電源を落とした。
三日ぶりにお気に入りのバンド「KKK」のPVを見たのだ。
ここ三日間高熱が出て寝込んでしまった為に、日課となっているPVを見ることが出来ずベッドの中で虚ろに天井を見つめつづけていた。

「もういいかげん起きたらどうだ?」
微かな紅茶の香りに混じって低く優しい声が響く。サツキの声だ。
寝る直前までPVを見ていたせいだろう。サツキの弾く柔らかなピアノの音がまだ頭の中に響いている。
「ほら、ケイ、何回繰り返してみてるんだよ」
サツキの声がして、キュルキュルとビデオテープが巻き戻る音がした。
朝だ。

ここは・・・?
ケイは割れるように痛く、熱を帯びた額に手を当てながらベッドから起き上がった。
「・・・サ・・・サツキ・・・?」
「どうしたんだよ、まだ熱あるのか?」
疑うような目で見るのはやめろよ、とサツキの目が言っている。
「どうしてサツキが此処に・・・?」
ケイはゆっくりと辺りを見回しながら呟く。
「どうしてって・・・お前、覚えてないの?」

「ライブ終わった後に、出口で倒れてたんだよ、ひどく酔ってた」
「・・・酔って、た・・・?」
「アタシを抱けって大騒ぎしてその後ぐったりして、だから此処に」
俺の部屋に運んだんだよ?サツキは意地悪そうに笑う。そういえば此処はホテルの一室の様な雰囲気だ。高い天井、洗い立てのシーツ。紅茶の匂いは恐らくモーニングサービスか何かで運ばれてきたものなのだろう。
「大変だったよ、周りのファンに隠して此処まで抱えてくるのが。体調悪いならライブは来なくてもいいって言っただろ?此処に来たとたんに熱出して・・・」
サツキは大きな手でケイの額に触れた。
「熱は引いたみたいだな。どう?起きれるのか?」
だめだよ、でもあんな目立つところで俺を待ってたら・・・。呆れ顔のサツキが火照った顔を覗き込む。どうやらサツキが目の前にいることは、夢ではないようだ。

「だって、久しぶりにサツキの顔見られると思ったんだもん」
ケイは少し俯きながらそう呟いた。サツキは『KKK』のレコーディングで数ヶ月海外へ飛び、先日の日本でのライブも久々だったのだ。蠢くファンの数。サツキから送られたVIPシートからライブを見た後、どうやら熱を出して倒れてしまったらしい。
「ごめんなさい、折角のお休みだったのに、こんな」
「いいんだよ、俺らレコーディング頑張ったし少しくらいオフ貰ったっていいだろ?見た?こないだのライブ、ちゃんと見てくれた?見ただろ?あのファンの数。久しぶりだったから、緊張したよ」
サツキは笑いながら冷めかけた紅茶に唇をつけた。

「ほら、これが向こうで取材されたヤツ。」
ケイが横たわるベッドの上にサツキは一冊の雑誌を軽く放り投げた。
英語で書かれている頁と、ケイの知らない異国の言葉で書かれている頁とが並び、それらが全てKKKとサツキの素晴らしさを語っている事くらいはその文字の意味を理解出来ないケイであっても感じ取ることが出来た。

「綺麗ね、サツキ」
ケイは表紙に掲載されている、ピアノを弾くサツキの写真を眺めながら呟いた。
「こうやって貴方のこと思っているファンの人、沢山いるんだよね」
こうやって、サツキの載っている雑誌を枕元に置いては溜息をつくファンの顔が目に浮かぶ。ケイは数ヶ月前の自分の姿と重ね合わせて複雑な気持ちになった。
「なに言ってるんだよ」
サツキは急に真面目な顔でケイの手から雑誌をもぎ取った。

ファンは、俺の仮の姿しか見てないんだよ。

サツキは雑誌をテーブルの上に放り投げて呟いた。目が潤んでいる。
「仮の姿だなんて」
ケイはそう言いかけたがサツキの潤んだ瞳に気づいて言葉を失った。
「俺が苦しんでいる姿は、ファンにとっては綺麗な幻想でしかないんだ」

「もしかすると、これ以上続けることが出来ないかもしれない」
サツキはケイの目を真っ直ぐに見詰めて呟いた。
「どういう、事?」
ふう、と一つ溜息をついて、サツキは続く言葉を殺そうとする。ケイはたまらず同じ言葉を繰り返す。
「続ける事が出来ない、って、どういう事?ねえ、サツキ!ねえ、ねえ!」
サツキは相変わらず苦しそうな瞳でケイを見つめる。
「お前には本当の事を話したい、でも」
サツキはそうひとこと言う事だけが精一杯でそれ以降口を噤んだ。

「なにも言わずに聞いてくれるかい?」
サツキは今までに見せたこともないような真面目な笑顔でケイに向かって微笑んだ。
「音楽を、続けられなくなりそうだ」
「え?どういうこと?」
ケイは白々しく言葉を返した。サツキの目は見ずに。
「もう、ドラムを叩くのは無理だって、そう言われたんだよ、それだけの事だ」
サツキはそう言いながらも。不思議と笑っていた。ごめん、ずっと隠していた、サツキはケイの唇に一瞬だけ指先を触れさせるとくるりと背を向けた。
「ねえ、サツキ、待って」
そんな顔で笑わないで。
微笑まないで。
貴方が音楽をやめてしまったら、貴方の音楽を愛している、あのコ達はどうなってしまうの?
「いいんだよ、もう、俺は」
「サツキ!」
サツキは振り返りもせずにベッドルームからリビングへと向かった。

どういうこと?
言葉が喉に引っかかって上手く続けることが出来ない。
ケイに顔を見せず、振り返らずにベッドルームを出て行ったサツキの後姿が、泣いているように、見える。
「・・・どうして!?」
ケイは静かに閉まり行くドア越しに、サツキに向かって叫んだ。
サツキの声はしない。

物音一つしない。サツキの気配が消えてしまった。
ケイは不安感に苛まれながら、ようやく重い頭をゆっくりと持ち上げて、ベッドから立ち上がりリビングへと続くドアを開けた。
「サツキ?」
いつもならソファにゆったりと腰掛けながらコーヒーなど飲んでいるはずのサツキが其処にはいなかった。
「サツキ?」
ケイはもう一度呼びかける。
・・・・・・水の流れる音だ。
それは、シャワールームの方向から小さく聞こえてくる、細く水の流れる音だった。
「なんだ、サツキ、シャワーならそう言ってくれれば・・・」
ケイは安堵の溜息を漏らしながらシャワールームに向かった。

水の流れる音が続く。ケイはバスルームのド前に立つが、硝子戸にサツキの影はなく、声をかけてもかえってくるサツキの言葉はない。
「サツキ?」
ケイは再び声をかけるが、ただ細く水の流れる音が聞こえるだけでサツキの声は一向にしない。
声どころか、サツキの気配さえ、しないような気がした。
「サツキ?大丈夫?開けるわよ?」
ケイは躊躇しながらも硝子戸に手をかけた。

「サツキ!?」
ケイが硝子戸を開けると濡れた床にサツキが倒れている。
苦しそうに荒い息のままでケイの呼びかけに応えることは無い。
「サツキ!!!」
ケイは泣きながらサツキを抱き起こしたが目を開く様子はない。
とりあえず震える手でシャワーの水を止め、大きなタオルを持ってサツキに再び駆け寄る。
「ねえ、サツキ!?大丈夫!?しっかりして!!!」

ケイはサツキのバッグを漁ってサツキの携帯を取り出した。
ケイは『kkk』の他のメンバーの番号を知らなかったし、知らない携帯番号からかかってきても彼らが出ない事くらい知っていた。他の4人のメンバーに順に電話する。
メンバーはケイの泣きじゃくる声を聞いてすぐに部屋に集まった。
5人で手分けしサツキをベッドに運ぶ。
サツキを無理やり着替えさせ寝かしつけるとどうにか落ち着いた様な顔で5人はリビングに集まった。

「そんなに、ひどいのか?サツキは・・・」
ボーカルの『
』と呼ばれるメンバーはギターに低く尋ねた。
「ああ、この前のライブはかなり無理をしていたようだよ・・・」

ケイはしばらく4人の話を黙って聞いていたが我慢しきれずついに口を開いた。
「・・・どういう事なんですか?昨日の夜も、サツキは『音楽を続けられなくなりそうだ』って言って・・・」
4人は黙り込んだ。
「・・・やっぱり、気づいていたんだよ、サツキも」
ベースとギターは代わるがわる言う。
「あいつ、駄目なんだ、無理しすぎたんだよ」
「確かに、忙しすぎたよな、俺達もだし、サツキ自身も・・・」
ああ、と力なく4人は頷く。
「サツキがケイさんに言った事は、どうやら現実になりそうだ・・・」
』は最後の言葉を飲み込んだ。

ケイはメンバーの言葉を信じることが全く出来ない。
出来るはずがない。
サツキはまだベッドルームで目を覚ます気配もなく時間が止まってしまったような重苦しい空気が流れているのだけを感じる。サツキが音楽を続けることが出来なくなるだなんて信じられるはずがない。
バラードが一つ完成したと、あの時あんなに嬉しそうに、私だけのために歌ってくれていたサツキ。そのサツキが、音楽を続けられなくなるだなんて、信じられるはずがない。

数時間経って、時計は真夜中を指し示していた。
「ケイさん、もし何かあったらすぐに連絡してくれよ、君からの電話だったら俺達、すぐに出るから」
そういうと彼らはケイの携帯電話の番号をお互いに控えて、部屋を後にする。
「・・・ありがとう、ございます」
ケイは部屋を後にするメンバーの顔など見る余裕はない。
ただサツキが目を覚ましてくれるだけでいい、それだけを思った。

4人が部屋を出て行ってから少しの時間が経った。
サツキは身動き一つせずにベッドに横たわる。まるで人形のようだ。
窓から細く月明かりが差し込み、サツキの白く透き通った顔を照らしている。
綺麗だ。
誰が見ても、この横顔に、この姿に心を奪われるだろう。
サツキの奏でる曲の全て、『kkk』の奏でる音楽の全てがケイの全てだと言っても今は過言ではなかった。
それなのに。
それなのに!

ベッドルームのドアを静かに閉めてケイは再びリビングのソファに腰を下ろした。
ケイの携帯がけたたましく鳴り響く。
「・・・・・もしもし・・・?」

電話の向こうにはさっき部屋を出た『赤』だった。
「やっぱり心配で、これからそっちにまた戻るから、いいかな」
『赤』はそれから程なく部屋を訪れ、サツキがまだ目を覚まさない事を知るとさらに声を潜めてケイに話始めた。
「俺達はずっと昔から一緒に音楽をやってきたんだ」
勿論そんなことは知っていた。
ボーカルである『赤』とサツキは学生の頃から一緒に音楽をやっていたという事は
『kkk』のファンであれば知らない者がいないほど周知の事実だった。

「本当は、苦しいんだよ」
「・・・苦しい・・・?」
深々と煙草の煙を吸い込んだ『赤』は不思議そうな顔をするケイに諭すように語り始めた。
「苦しいんだ、結局、こんな風に大きくなってしまって、休む時間もなく突っ走って、一番胸を痛めていたのはサツキだ」
「・・・サツキが・・・?」

「ああ、最近また少し元気になってきたから安心してたんだよ、あいつ、絶対に人に弱みなんて見せないからどれだけ参ってるのかも俺達が気づくことも出来なくて」
『赤』とケイの声しかしない。サツキの気配が無い。
「もしも、もしもこのままサツキが目を覚まさなかったとしたら、ケイさんはどうするの?」
「!!!」

絶対に、そんな事は無い。
絶対に、サツキは再び目を覚まして、また元のように綺麗な曲を作り出す。
目を覚まさないなんて、そんなことはありえない。
信じられない。
絶対にあるはずがない。
絶対に、サツキは目を覚まして、いつもと何も変わらずに音楽を続けていくから。

ケイは『赤』の話を信じることが出来ないままでいた。『赤』は続ける。
サツキは極度に体力が落ちていると言う事、大量の酒と煙草のせいで肺がかなり弱くなっているということ、休みないスケジュールで疲労がピークに達しているだろうということ。

『赤』の言葉を聞いてケイは言葉を失う。
『赤』は明け方近い時計の針を見て、悲しそうに微笑んで静かに部屋を出た。
サツキは、まだ目を覚まそうとはしない。

それから一時間ほど経って、ベッドに突っ伏していたケイは横たわるサツキの腕が微かに動いたことに気づいた。
「・・・サツキ・・・?」
サツキはひどく咳き込みながら目を開けた。
「サツキ!!!」
サツキは横たわったままケイがベッドのそばにいる事を知って安心しきった笑顔で微笑んだ。
「・・・大丈夫、だよ、ゴメンな、心配かけて」
ケイはサツキの身体を抱き起こしながら、ついさっき『kkk』のメンバーに聞いた事をサツキに直接確かめようとした。サツキはいつもと何も変わらない様子を繕っていたがその精一杯の笑顔にケイは騙されることは無い。
「・・・ちょっと疲れていたのかも、しれないな・・・」
サツキは咳き込む口元を軽く手で抑え、ケイにそう呟いた。

「ねえ、サツキ」
「・・・なに?」

尋ねることが出来ない。
サツキに、これからの事を尋ねることなんて出来ない。出来るはずが、ない。

ただ、サツキが目を覚ましてくれただけでいい。それだけで、いいんだ。

ケイは、やっぱり、なんでもないよ、と脈絡の無い返事を返して不思議そうな顔をするサツキを再び横にさせると彼の胸元までシーツをかけた。
「しばらくゆっくり出来るんでしょ・・・?」
「・・・ああ、明日までは休みをとってあるから」
オフが終わればまた彼らには慌しい分刻みの毎日が待っている。サツキとこうやって会うことが出来るのは本当にわずかな時間しかない。サツキが強く咳き込む。
「大丈夫!?」
ケイがサツキの背をゆっくりと撫でるとサツキは安心したように再び目を閉じた。

「・・・ゴメンな、折角こうやって会えたのに」
「いいのよ、ゆっくり休んで・・・休んで・・・」
「今日少し休んだら、明日は大丈夫だから、何処か、行こうよ」
サツキは目を閉じたままケイに言った。
「いいのよ、私の事は、折角サツキのお休みの日なんだもの、ゆっくり休んで貰わなくちゃ」

ケイはそのままサツキの顔を見ないようにリビングへ向かった。咳き込みが続くサツキに水を運ぼうとキッチンへ入る。
水道から流れ続ける水の音を聞いて昨晩シャワールームでサツキが倒れていたシーンを思い出し、その後メンバーの語ったサツキの容態の事を考えて、泣いた。すすり泣く声は水の流れる音に掻き消されサツキまで届くことはないだろう。
もしかするとサツキ自身もあのシャワーの中で泣いていたのかもしれない。

グラスを手にして部屋に戻る。どうやら咳は収まったようだ。落ち着いた顔をして眠っているのを確認し、グラスをテーブルに置くとケイは静かにベッドルームのドアを閉めた。ソファに腰をおろす。そしてゆっくりと、一つずつ考えてみる。
ケイが初めて『kkk』に出合った時の事。
初めてケイがサツキと出会った時の事。
あのバラードが、自分の為に作られたのだと知った時の事。
サツキの音楽、『kkk』の人達、蟻の群れのようなファン、その中のちっぽけな一人だった自分。
サツキの顔、長い髪の毛、声、指先、言葉、歌、ピアノ、音楽。

携帯が鳴る。電話の向こうは心配そうな声の『赤』だった。
「大丈夫、みたいです、とりあえず、落ち着いて眠っているようだから・・・」
『今そっちに向かってるから』
『赤』からの電話音声に重いエンジンの音が混ざる。どうやら物凄いスピードでこの部屋に向かっているようだ。
そしてそれからすぐに『赤』が現れた。
「サツキ、大丈夫そうで俺も安心したよ、あとで他の奴らもこっちに向かうって連絡が来たよ」
『赤』はジャケットから煙草を取り出すと火を点け、テーブルの上のリモコンにおもむろに手を伸ばすとビデオの電源を入れた。
昨日の夜ケイが繰り返し繰り返し見ていたPVが流れ始める。
甘い、バラードだ。
あの、ピアノのバラードだ。
「・・・・・本当に、サツキはこのまま音楽を、続けられなくなっちゃうんですか・・・?」
ケイは『赤』に顔を向けず画面の中で美しくピアノを引き続けるサツキを見つめて言った。
「ああ、あいつには何も伝えていないんだけどな、昔から世話になってる医者がそう言ってるんだ。一度サツキが風邪を拗らせた事があってその時にあいつを無理やり病院に連れてった事があったんだよ、その時に・・・」
ケイは黙って『赤』の言葉を聞いていた。
「・・・あいつはいつだって無理しすぎなんだよ!全然自分の身体の事なんて考えてない!いつも一人で突っ走って、死ぬ事だって構わないって顔して、毎日毎日無理して音楽作って、笑って・・・無理して・・・無理・・して・・・」
『赤』も流石に其処まで叫んで声を詰まらせた。

テレビの画面からは繰り返しピアノのバラードが流れつづけている。
甘く、切ない曲。
ケイの為に作ったのだと、あの日サツキは言っていた。



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